私の考える英語学習

  公教育の英語と実用性とのズレ

 

日本では、中学と高校の6年間で英語を学びますよね。具体的な授業の進め方は学校でそれぞれ異なりますが、学習指導要領として定められた内容によると、基本的な英語の能力については、中学の3年間で終了できる事になっています。確かに、学習指導要領の内容に沿って、3年間しっかりと英語の勉強をすれば、言葉としての最低限の英語力を身につけているはずです。しかし、現実にはそうなっているでしょうか。
受験やテストのために英語の勉強をしているときにはあまり気がつかないものですが、社会に出て、公私の各場面で英語が必要になったときに、6年間の英語学習が、十分に基礎を確立してくれていると思えるかといえば、そうではないことが多いものです。世界中には英語による情報があふれているので、それにアクセスすることができれば自分の世界をおおいに広げることができるのに、学校でしっかりとやったはずの英語の勉強があまり役に立たないというのは勿体無いことです

  意見交換に重きを置かない英語教育の目的って何?

 

その原因としては様々なことが挙げられます。まずは、地域・学年で区分された閉鎖性です。実際の授業は教室で行われ、かつ、学年ごとに行われる内容が決まっています。また、それぞれの地域では、その地域内の学校での授業に関しては、各地方自治体の教育委員会が管轄します。このように、地域や学年で細分化された教育システムの中では、授業内容や方法についても、その枠に縛られたものになりがちです。本来コミュニケーションの道具である言葉としての英語が、このような枠の中に閉じ込められてしまうと、コミュニケーションを離れた単なる勉強のための勉強になってしまうのです。

 

 王道の英語学習は自己主張できる人間を育てる

 

また、全国一律の指導要領が、没個性・没主体を生み出す結果にもなっています。確かに全国で一定の学習効果を期待するためには、一律の指導要領が必要になります。しかし、コミュニケーションは、多くの人を結びつける道具なので、それぞれの人は個性や主体を持って他の人と向き合います。ここで、全国一律という考え方が、個性や主体性を重視しない機械的な学習目標と捉えられてしまう事で、個人と個人が向き合う場として、英語学習の場が機能しなくなってしまうのです。

そして、具体的な学習方法についても、思考を奪う暗記中心主義の弊害が現れてきます。既に述べたように、閉鎖的で没個性・没主体的な英語学習は実践では機能しません。確かに言語の習得には、単語や文法の理解が欠かせませんし、そのためには暗記も必要です。しかし、暗記が主体となる勉強では、もはや個性や主体性を表現するためのコミュニケーションの道具として英語を使いこなすこととは別のものになってしまっているのです。

このような日本の英語教育は、外国語として英語を学習しているほかの国の教育と比べると、そのコミュニケーション能力の習得という点では、グローバルスタンダードから外れているといわざるを得ません。他の国々にあわせればよいというものではありませんが、英語学習が、本来的にはコミュニケーション能力の習得を目指すものであるということを、もう一度考え直すことが必要なのです。