「あれこれ悩む前に行動を!」というセリフはいたるところで吐かれます。限られた人生で、あることに対し思い悩むということは確かに時間を無駄にしていることでしょう。気の赴くままに行動を起こした方が痛手を負ったとしてもそこから何かを学べることだってあります。ただその契機となるのが、ある特定の人がいったことを鵜呑みにして突っ走ったり、自分の意志だと思っていても知らず知らずのうちに刷り込まれたものということもあります。ある意味学校教育も一種の洗脳ですよね。
今日は近頃低い立場に貶められてきた傍観、認識の地位を再確認したいのです。
英文のポイント
主語(S)+be動詞+補語+長い関係代名詞節
主節が第2文型で短く、その補語を関係代名詞節が修飾しているときは主文のA is B の部分を「AというB」としてAをBに収斂させて、この全体を関係代名詞に代入しましょう。
BはAの種・属を表す名詞で内容展開に入る前に事柄の輪郭(形式)をはっきりさせておこうという意識が働いています。
そして関係代名詞節に主張が置かれるのです。
それを踏まえたうえで、悪い訳出と優れた訳出を比較しましょう。
Japan is a country whose capital has an enormous population.
✖ 「日本とは一つの国であって、その首都は膨大な人口を有している」
✖の理由: 主節と関係節が等価になっています。a countryはたんにJapanの説明だから「その首都が膨大な人口を有している」という内容との具体性のレベルには大きな差があるのです。
✖ 「日本はその首都が膨大な人口を有している国である」
✖の理由: 訳し上げると<前提⇒主張>という関係が見えなくなります。
〇 「日本という国の首都は膨大な人口を有している」
〇の理由: 前提から主張という流れに沿っていますね。長文読解にはこの意識は欠かせません。
現在完了の再考
現在完了は助動詞have(has)とV-edとに分けて理解するのが望ましいです。助動詞haveは現在を環境として与えている部分で 、その直後のV-edという「過去」分詞が現在の中に立ち現れている過去を表します。
She has lived alone in this house for almost five years now.
この例文においてもhaveが現在をあらわす助動詞でliveは過去を示す過去分詞です。「ほぼ5年間この家で一人暮らしをした」ということが、現在の中に引き寄せられているということを表現されているのです。現在完了は過去と現在をつなぐ架け橋となるのです。訳の上では過去形の場合と違いはありませんが、この表現の意義は奥が深いのです。

ここでもう一つ「動作」動詞の場合は
He has already done his homework.
というように現在完了になると宿題を終えたという過去の事実が、現在の中に持ち込まれることによって、過去が現在化し生き生きとした余韻を感じさせることになります。
節の末尾に副詞節がある時のコンマの有無について
英文を読む時、コンマを意識する人ってあまりいないと思います。しかし言語学者の中にはそれについてかなり敏感な人がいます。コンマは日本語においては気まぐれで使われることが多々ありますが、論理的な英文においてはそうではありません。
一般的には主節の内容が末尾に置く副詞節の内容の影響を受ける、あるいはその内容に依存している場合はコンマを打たないのです。
The thick wall cannot be breached unless we employ explosives.
「劇薬でも使わない限りその厚い壁は破れない」
というようにcannotとunless節が絡み合うことで一つの意味が成り立っているときはコンマは打たないのです(cannotとunlessで二重否定が成立しています)。
ところが譲歩節の場合は主節の内容に影響を及ぼすことはありません(そもそも無関係だといっているわけですから)。
Pat is going to the party at Sue’s on Saturday night, even though she knows she ‘ll be bored.
「パットは、土曜日の夜のスーの家でのパーティーに行くことにしている。退屈するのは分かっているのだが」
いかがですか?学校ではコンマの重要性はほとんど教わりませんでしたよね。コンマも文脈を把握するのに大変役に立つのです。因みに今回のテクストでは④で末尾に副詞節があるのですがこのwhileは対比を表すので主節に何ら影響を及ぼしませんね。それでコンマが入ります。
テクストの解釈
これは哲学者の柄谷行人さんによって書かれたものです。彼は大学教授であったし、文芸評論家でもあったので感情に任せた安易な行動というものは好みませんでした。徹底的に現状を認識することを重視するということで17世紀のオランダの思想家スピノザをリスペクトされていた時期がありました。柄谷さん自身はよく自身のことを「情念の人」といってましたので、ここで出てきたニヒルな天使のようにはなれません。
人間は世界内存在である以上、受動感情は免れない、そこを超越することはできないのです。では、どうすればいいのか?ただ認識しようとしているときだけ救われるというのです。ムシャクシャしたときや悲しみに暮れるときは、その原因を考えるのです。構造の中の項にすぎない人間がそのメカニズムの一部を把握したとしても世の中が一変することはありません。スピノザの姿勢は楽天的であるかに見えて非常に厳しいのです。
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