天使の詩(3) ~歴史の終わり

1989年に大きな社会主義の実験とよばれたソビエト連邦は失敗に終わりました。
平等を抱える理念も結局貧困の平等に終わったのです。より高次の平等なら資本主義国がする福祉国家で功を奏するのです。日本の累進課税は「唯一社会主義に成功した国」といわしめるほどのものですしね。この国でいう格差社会はまずマスコミがある一部だけを取り上げてでっち上げたものでしょう。

ではより進みつつあるグローバルな資本主義社会が貧困国を救うのでしょうか?そういったことも凝視しながら現状を知りたいですね。「認識なくして変革はなし」という言葉を信じて。今日は構造主義というものを題材にしようと思います。

 

英語版

①Having a form means being an “angel”. ②However, contemporary formalism isn’t aspiring for eternity, like Platonism, but it is instead connected to the thought that history can’t bring forth anything qualitatively new. ③For example, we are still fighting over ideals the bourgeois revolution provided us with. ④“Socialism”, while intending to transcend that, only regresses further. ⑤That being the case, shouldn’t we say, like Hegel, that the history of the world ended with Napoleon?⑥ Of course, being able to say that is due to  having no choice but to experience the barren “history” after Hegel.

⑦For example, it can be said that the system of thought called “structuralism” declared that history is already over, and that there is no meaning outside the simple transformation of forms. ⑧That wasn’t simply anti-historic, but in itself a historic understanding. ⑨It is by no means an abstract thought. ⑩When one thinks of the things that happened in Berlin and Hiroshima, it becomes a realistic thought. ⑪Being like an “angel” is no longer our desire, but a condition for life.

 

 

原文

形式的であること、それはいわば「天使」たることである。しかし現代の形式主義はプラトン主義のように永遠を志向しているのではなく、もはや歴史が何一つ質的に新しいものをもたらしえないのではないかという疑いとつながっている。たとえば、われわれはいまだにブルジョワ革命が提出した理念をめぐって争っている。それを超えたつもりの「社会主義」はそれより後退してしまう。すると、われわれはヘーゲルのいうようにナポレオンとともに世界史は終わったというべきではないだろうか。むろんそういいうるのは、ヘーゲルの後の不毛な「歴史」を経験してこざるを得なかったからである。

たとえば、「構造主義」と呼ばれた思想は、歴史がもはや終わっていること、たんなる形式的変形以外に意味などないことを宣告するものであったといっていいだろう。それはたんに反歴史的なのではなく、それ自体歴史的な認識であった。それはけっして抽象的な話ではない。それはベルリンや広島で起こったことを考えるとき、現実的な話なのだ。「天使」たることは、すでにわれわれの願望ではなくて、生の条件なのである。

英文のポイント

 主語の直後に副詞節を挿入するときの意味の変化について

節に末尾でも先頭でもなく主語Sの直後に副詞節をおくことがあります。

My brother, when he was only four years old, actually drove the family car for about a block.

「僕の弟は、たった4歳の時に、実際、ワンブロックほど自家用車を走らせたんだ」

のようにコンマで区切りながら挿入する場合です。この場合には、主語Sが際立つことになります。もしこの文で副詞節の挿入がなかったとしたら主語Sに強勢が置かれることはなく旧情報(前提)として済まされてしまうのです。しかし副詞節の挿入によってここで主語Sに強勢をおくことが可能になるのです。

このように書き言葉においてもある程度の音声的な操作は可能なのです。when節が主語Sの前にある場合、または節の末尾に置かれている場合との違いを考えてみてください。いずれも主語Sに強勢が置かれることはありません。

今日のテクストでは④がそれにあたります。③ではブルジョワ革命について論じられていますが、④で“社会主義”と話題が変わっているのです。筆者はここに強勢を置きたかったのです。

 

否定・比較と書き手の判断

否定を示すno/not/hardly/few/little/rarely/seldomは書き手の判断を示す重要な指標となります。そして比較級や最上級においても他のものが否定されてあるものが肯定されているわけですからこれらが書き手の判断指標となりうるのです。

否定・比較は文法としてのみならずリーディングにおいて書き手の判断が宿る重要な要素として扱わないといけないのです。テクスト⑥ではno choice but が否定語と最上級のニュアンスが密につながっていますよね。

ティーブレイク

偉大なる哲学者ヘーゲルがナポレオン革命で世界史は完結したといったそうです。以後起こることは、構造の変形にすぎないと。

そうすると、人間は構造の中の項にすぎない、つまりすべてパターン化されてしまっていることになります。それは義務教育から始まるのか、画一化・洗脳された両親の教えからすでに出発しているのか定かではないですが個性・主体性を持って生きている人というのは逆に疎ましがられるのではないでしょうか?今は充分平和なのだし、面倒くさいことはやめ仕事はほどほど、夜はテレビの前でビール片手に野球観戦し、休日はショッピングモールで買い物をし行列に並んで時間を潰す。人間とて、こうした消耗品でいいではないかと意識せずとも心にあるのではないでしょうか。

50歳以上の人なら1989年のソ連の崩壊によって「歴史は終わった」という言葉をよく聞いたと思います。日系アメリカ人のフランシスーフクヤマは資本主義の勝利を誇っていたのです。しかしこのテクストによると、19世紀の初めにはすでに歴史は完結したことになります。日本では江戸時代ですよ。もう何も目指すべきものはないという宣告がヘーゲルによってなされたのです。日本ではポストモダンというのはプレモダンと非常に類似して、近代を通過しなかったという事実は肝ですね。

私は、80年代にこのテクストの著者である柄谷行人さんがポストモダンの薄っぺらい思想に辟易しながら、モダンを構築しながらディコンストラクションするという「一人二役」の仕事に疲弊していたということの意味がここ数年前からやっと理解し始めました。「人間性を取り戻せ」という以前に”人間性”を知らない私たち。その私たちを包む構造からは、ファシズムもスターリニズムもそして弱肉強食のグローバル資本主義も出てくるのです。決して呑気でいられるわけではないのです。