ピタゴラス(2) ~知を愛する人

「知を愛する人」すごくいい響きですよね。

私は10代から大学受験というものに人より拘泥しつづけたので「勉強」ということに青春をささげたといってもいいかもしれません。ところが最近は、40代、50代いや60代の方さえそれほど勉強しなくてもお金さえ払えば簡単に名だたる国立大に社会人入学することができます。もっというと自分の学歴を隠ぺいするために修士を取る人さえいます。「学歴ロンダリング」とかいうそうですが。もちろんそこで真剣に学びたい人には文句は言いませんよ。しかしただ、肩書欲しさのためだけに入っているとすると、日本の大学に価値はなくなったとはいえ自分の苦労があほらしくなるものです。

しかしよくよく考えてみますと、ハイティーン時代の受験経験というものは本当に価値があったのか自己批判しなければいけない。あれにしたって、ほとんど暗記とノウハウを駆使することで合格することは可能なのですしね。数年前に聞いた話ですが、共通一次(今のセンター試験)の現国の問題を出題分を全く読まず選択肢だけを見て満点を取ったという人が何人もいたそうです。結局はノウハウなのです。立身出世を目指し親を楽にしたい、良い会社に入って素敵な家庭を築きたいのであればそうすべきだったのです。彼らにはそれぞれの正義があるのです。「傾向と対策」をしっかり押さえて臨むのは正当策です。それを否定するのはお門違いなのです。

では「知を愛する人」とはどういう人でしょう?また知そのものとは何なのか?

英文
Pythagoras made a clear distinction between knowledge and non-knowledge. In this system, knowledge obtained through the senses is non-knowledge, which true knowledge transcends. For this he is called the first philosopher, or lover of knowledge. However, as with the concept of transmigration, such ideas were commonplace in Asia.

Nietzsche had this to say about this kind of theory of a dual world of truth and illusion: The very fact that such a distinction is possible—that this world should be called the “world of appearance,” and the other world should be called the “true” world—is symptomatic.The place of origin of the idea of “another world” is the philosopher. The philosopher, who invents a rational world, where reason and logical functions are adequate: the “true” world has its origins here.

However, this view does not help us to distinguish the idea of the dual world pervasive in Asia from that of Pythagoras. What is important is that the dual world discerned by Pythagoras is not just another variation of dual-world doctrine. In Pythagoras’s case, he arrives at this theory after passing through his experience in an Ionian society where the dual world was rejected. Without taking this into consideration, one cannot capture the inversion and historicity of Pythagoras being hailed as the first philosopher.

日本語版
ピタゴラスは感覚による知は仮象であり非知である、真の認識は感覚を超えたものだ、と考えた。ピタゴラスは知と非知を峻別した。ピタゴラスが最初の哲学者(知を愛する人)だといわれるのは、そのためである。しかしこのような考えは輪廻転生の観念と同様に、アジアではありふれている。真の世界と仮象の世界という二重世界に関して、ニーチェは次のようにいっている。

この現世が「仮象の世界」で、あの世が「真」の世界であるとみなされるということが、ある症候のあらわれである。「別の世界」という表象の発祥地は、すなわち哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では理性と論理的機能がふさわしい、-ここから「真」の世界が由来する。

だが、このような見方では、アジアで一般的である二重世界論と、ピタゴラスがもたらした二重世界を区別できない。重要なのは、ピタゴラスが見出した二重世界が一般的な二重世界論とは似て非なるものだということだ。ピタゴラスの場合、二重世界を否定するイオニア社会を経由しているからである。そのことを見ないと、ピタゴラスが最初の“哲学者”として現れたことの倒錯性や歴史性が理解できない。

英文のポイント

主語Sでなく副詞要素M₂が主題になる構造 -M₂ S V の語順

この構造は二種類の役割があります。

a) コントラストを表す

ex) ①Previously, if we saw complicated or fluctuating behavior- weather patterns, color patterns of animals or shapes of leaves- we assumed the underlying causes were complicated.② Now  we realize that extraordinary complex behavior can be generated by the simplest of rules.

「①かつては、たとえば天気のパターンや、動物の色のパターンあるいは葉の形などの複雑な、あるいは変化し続ける振る舞いを目にした場には、それを生み出す原因が複雑なんだと思い込んでいた。 ②今や、並外れて複雑なふるまいを生み出す、きわめて単純な規則がありうるということが理解されている。」

ここでは二つの節がコントラスト,対比関係をなしているということを読み手に知らしておきたいという意図が表れています。

英語において時や場所や条件の副詞要素が節の先頭に置かれた場合には、このようにコントラストの意味が加わります。ということは、コントラストの意味を加えたくない場合には、副詞要素は節の末尾に配置することになるのです。たとえば

Don’t hesitate to send me an e-mail if you would like to know more.

という文のようにif節を末尾に配置するのです。もし、if 節を先頭に置けば書かれていること以上に何らかの含みを持ってしまうのです。

副詞要素が主題となる場合(文の先頭に置かれる場合)、無色の主題である主語Sと違い色つきの主題といえましょう。

図式化しますと

というふうになります。ところが、コントラストは連続した二つの節で表現されるとは限りません。複数のパラグラフにまたがってコントラストが形成されることもあります。ですから、時、場所の副詞要素や条件の副詞要素を節の先頭に目にしたとき、その時点でコントラストの相手方がどこかで登場するはずだという期待感を持っておくのがよいでしょう。

b) ローカルな文脈を設定する

♦主題の副詞要素が旧情報である場合 

旧情報は

  Given A 文章の中ですでに述べられている事柄
  Given B 多くの人々が知っており、情報価値が低いとされた事柄
  Given C 状況の中に見出すことができるモノ・ヒト

と分類しておきます。副詞要素を主題にするもう一つの理由はM₂が旧情報であるから先に触れておきたいという動機があります。この旧情報は、ほとんどがGiven AかGiven Bになります。

♦旧情報を担うM₂が主題であるときの役割

詳しく見るとそれには3つの役割を持ちます。まず例文を取り上げましょう。

①Every culture has its own attributes, which must be grasped in and for themselves. ② In order to understand a culture,one must employ the same faculties of sympathetic insight with which we understand another, without which there is neither love nor friendship, nor true human relationshops.

「①あらゆる文化が独自の属性を持っており、その属性はそれ自体として理解されねばならない。②文化を理解するためには、われわれがお互いを理解する時の、そしてそれなしには愛も友情も、また真の人間関係もないといえるような、教官に満ちた洞察力と同じものを用いなければならない。」

ⅰ)すでに述べた内容の再確認 (understand a culture「文化を理解する」ということはすでに述べたことです)

ⅱ)旧情報と以下の新情報との橋渡し・関係づけ(in order toが文化理解を目的としたときの手段を次に示します)

ⅲ)新情報を理解する際の前提・環境・背景知識(one must以下の内容はin order to understand a cultureという目的を背景とします)

この3つの役割を図式化しますと

ⅰ)旧情報を確認し、ⅱ)S’V’とSVとを接続語句が関係づけしⅲ)M₂全体が主節の新情報の背景をなす

 接続語句  旧情報GivenのS V 新情報NewのS V
                     M₂ 節    主節

この関係が成り立つのは副詞要素が時・場所・条件を示すのではなく、あくまで目的・理由・手段・譲歩といった意味においてです。そして新情報が与えられているわけですから話が一歩前進しているという意識を持ちたいものです。つまり「一般的なものから特殊なものへ」と進むのです。より特殊的なものへと絞り込んだ局所的な文脈を「ローカルな文脈」と呼ぶことが言語学者の間ではあります。

 

 

ティーブレイク

哲学の奥深さとその味わいに触れる気がします。高校の世界史の授業では、「タレスは万物の始原は水といった」「~という人はすべてはモノではなく数から始まるといった」で終わってしまいそれ以上掘り下げることなく、生徒・受験生はこの言葉だけを暗記するのです。倫理社会の授業を取っていればもう少し深く塾講させてもらえたかもしれませんが、一年という短期間で習得するのは困難なことかもしれないですね。だとすれば、授業を行う先生の役目は何かと問われることになりますが。

さて、このテクストですが、現世という「仮象の世界」とあの世という「真の世界」の二重世界論について論じられていますね。形而上学というのはこの世にどっぷりとつかっていれば物事の本質は見えないという立場です。それを鳥瞰できる人間だけが哲学者だというのです。ところが反対に近代の思想家ニーチェはこの立場を完膚なきまでに叩いたのです。見えているつもりだけで何ら現実に影響力を及ぼさないような宗教は『弱者のルサンチマン』で何ら威張れるものではないのだというわけですね。

ですがここでは、ピタゴラスがたんに二項対立の「真の世界」に優位を置いたのかどうかを問うています。

私は10年ほど前、「オーラの泉」というテレビ番組をよく見ておりました。あれは現世というものを苦行で満ち溢れたものとし、そこをクリアしても何度も生まれ変わってより高いハードルを乗り越えていくそうすることで解脱できるのですよと美輪明宏さんがおっしゃっておられましたね。確かにそれは精神的に救済されます。でもはっきりいって、それに慰められる視聴者はニーチェのいう「弱者のルサンチマン」です。もちろん美輪さん自身が本当にあの世を妄信しているとは思えません。敬愛されていた三島由紀夫氏の自刃を目の当たりにした経緯もあったのでしょう。

それに対し、ピタゴラスの二項対立の背景には政治運動の挫折があったというのです。実現したはずのデモクラシーから僭主(権力を横取りするもの)が出現し、民衆は嬉々として服従するという光景があったわけです。この意味では「知を愛する者」、哲学者は人々を自律に導く疎外された指導者といえるかもしれません。あえて崇拝されることを拒んだのですね。おとなしく真面目にえらいさんのいうことを聞いておけば極楽に行けるというのは甘い考えだと冷や水を浴びせながら民衆と距離を取っていたのかもしれません。