ピタゴラス(3) ~天文学と数学

実際に目に見たものしか信じないというと現実主義的でカッコいいようにも聞こえますがやはり視野は狭いといわないといけません。古代ギリシャの哲学者が、プラトンのイデアに対抗して「私は個々の馬を見るが、馬なるもの(馬性)を見たことがない」といって一般性を拒絶し得意になっていたという話があります。この哲学者はプラトンのイデアを一般性と解釈していたことは間違いありません。

しかしこのイデアを天空のものとしてあざ笑うのではなく、個々の関係として実体的扱うとどうでしょう?「万物の始原」を水や火といった実在ではなく、数に見出したピタゴラスについての批評を見ていきましょう。

英語版
Astronomy is one of the fields of inquiry that most privileges mathematics. The heavenly bodies cannot be discovered as objects, but only as relations or laws of transformation. For example, prior to the advent of astronomy as a systematic study, people knew of the constellations and the legends on which they were based. To know a constellation is to grasp an unchanging structure out of the ceaselessly changing position of the stars scattered in the night sky. Of course, people discerned the constellations from very early on without being aware of their structure, just as they utilized chords and harmonies without being aware that they were based on exact proportional relations. Pythagoras, however, elucidated the secret of the harmonies. In the same way, he thought he could make clear the secret of the celestial motions. For him, astronomy was a matter of listening to the music of the spheres. When an instrument is tuned a certain number of octaves higher, it becomes inaudible to human ears. Conversely, though inaudible to humans, through a mathematical realization we can know the music of the spheres. This is a music that transcends the senses.
日本語版
天文学は、他の学問に比べて数学を特権化するものであった。天体はモノとしてではなく、関係あるいは変換規則としてしか見出されないからである。たとえば、体系的な天文学が始まる前から、人々は星座を、また星座に由来する神話を知っていた。星座を知るということは、、満点にちりばめられた星座の中に、それらが見かけの上で位置を絶えず変えながら、つねに一定している構造を把握することである。むろん、そのことを知らなくても、人々は早くから星座を知っていた。それは和音が比例関係にあることを知らなくても、和音を用いていたのと同じである。ただ、和音の秘密を明らかにしたのは、ピタゴラスなのである。彼は、同様に、天体の運行の秘密をも明らかにしうると考えた。彼にとって、天文学は「天界の音楽」を聴くことであった。弦楽器の音を何オクターブか高くすると人間には聞こえなくなる。逆に、人間には聞こえなくとも、数学的な認識によって「天界の音楽」を知ることはできる。そのような音楽は、感覚を超えていると考えられる。

英文のポイント

 法表現について

♦法とは何か

英文を読むときには、法表現というものが非常に大きな役割を持ちます。本格的な文法書にはMoodといっています。雰囲気・感情のことですね。具体的にいいますと、ある事柄の可能性あるいは義務性について語り手である「私」がどういう判断を持っているか示すわけです

そしてそこには、述べられた意見とは違った意見、特に聞き手が持っているかもしれない異なった意見を考慮に入れている、という語り手の対話的な姿勢、態度を示すものがあるのです

法助動詞というものを取り上げます。

He is guilty. /  He must be guilty.

He isn’t guilty. /  He cannot be guilty.

肯定文でも否定文でも、前者は「彼は有罪である、有罪でない」という判断を何の処理も加えず裸のまま伝えるものです。他方、後者は「彼が有罪である、有罪でない」という判断に対し聞き手からの反論がありうることを考慮に入れているのです。

♦判断の主観性の軸

法表現には主観性・客観性の打ち出し方に違いにかかわる軸があります。

主観性は、I think「~だと考えている」やI believe「~だと信じている」やI suspect「~ではないかと思う」などがあります。これらは助動詞mustやshouldやmayの中に潜在的に含まれている「私の考えなのですが」という主観性を志向を示す動詞と一人称Iを用いてI think (that)という節の形で表現したものです。

客観性は法助動詞willやI thinkに宿る書き手の主観性を消去するための表現です。willのレベルですとprobably「おそらく~だろう」という法副詞非人称It を用いた It is possible that 「~だという可能性は高い」という節の形式が判断を客観的なものとして伝えるのです。

 主観性をはっきり示す  主観性を暗に示す  客観性を暗に示す  客観性をはっきり示す
    I think (that)      will           probably   It is probable (that)

 

♦法表現から何を読み取るか

例えば法助動詞mayには、頻度か可能性として響く場合があります。可能性のperhapsとして響くときは、

書き手の主張である場合は非常に控えめな主張を伝える節となり、書き手の主張でない場合はたんに一歩譲って何らかの立場を認めているだけの節になります。

♦譲歩⇒主張の流れとその注意点

法助動詞に限らず、法副詞も同様です。基本パターンは

S may V……, but S V ….

ですが法助動詞may以外にも判断のハイレベル(certainlyなど)やミドルレベル(probablyなど)を持ってきてもよいのです。そして肝心なことは、but(however)までの部分は書き手が自分以外の他の意見をどの程度認めているのかを知ることです

♦譲歩か対比か

この S may V、but  S V が必ずしも譲歩⇒主張とは限りません。

ex)  A scientist may ask “why?” and proceed to research the answer to the question, but, in contrast, engineers want to know how to solve a problem, and how to apply that solution.

訳)科学者なら「なぜ?」と問うて、その問いの答えを研究するかもしれないが、対照的に、エンジニアは、ある問題の解決法を、そしてその解決法を適用する方法を知りたいと思っているのである。

例文ではin contrastという語を用いましたが、それがなくとも対比・対照のためのbut は用いられる場合があります。

 

法表現というのは、英文読解の上で大きな比重を占めているのです。今回は可能性についての法表現の一部を触れただけですが、義務・頻度についての法表現も同じく大切です。後々触れていくことにします。

今回、ふたつの短い文章を入れておきますので実践練習としてどうぞ!!

ティーブレイク

あの世であるとか宇宙の果てを知ろうとするのは私たち凡人には不可能です。科学的であろうとしないでそれを語るのは戯言にすぎませんね。哲学に関してもそう、主観だけを頼っていてはただの個人的な好みの話にすぎなくなります。ピタゴラスが音楽や天文学において数学を重宝したのは、それが量を測るためのものではなく、関係を示すものだからです。

高校の世界史でもありました。「万物の根源は~」といろんな思想家が主張したのですが、「万物の根源は数だ」と言い切ったのは異彩を放っていましたね。まずモノありきではないのですね。最近、量子力学というものに興味を持つようになったのですが、素粒子というものは実体なのか波(関係)なのかわからない。それを考えますと、ピタゴラスの思想はあながち間違っていないことになりませんか?

私たちも自分の考えに対し科学的であらねばならないというのは、何も既存の数学に忠実でないといけないことを意味しません。自分の信仰をそこに入れてもよいのです。ただし無矛盾でないといけませんね。一貫性を保持しつつ展開していくことが自身の思考を強固にするのだと思いたいです。ずいぶん、昔になりますがリスペクトしていた英語の先生が「学者にはなるな、思想家になれ!」というようなことを言っておられたのですが、そういうことと関係してくるのでしょう。

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