「倫理」 ~なんといい響きだろう

ぼくは、「倫理」という言葉が好きです。なぜこんな堅苦しい窮屈な言語を好むのか怪訝に思う人もいるかと思いますが。以前、柄谷行人さんが「倫理21」という書物を出された時のことです。柄谷さんの本にしては比較的読みやすいものですがその書においては道徳と倫理というものを峻別しています。前者が共同体が押し付けるもので、個人が自由に選択して選んだ場所ではありません。生まれた地域、そして義務教育としてその地区で過ごす小中学校もそうです。しかもこの道徳の曲者さは、明文化された法ではなく、何となく「こうするのが当たり前だ」みたいなところがあってそこから外れると陰でひそひそといった憂き目にあうのです。そこに所属する住民もそれに従った方が楽で、思考停止してそれを受け入れる。高校は行かないと、結婚して一軒家を持たないと世間に顔向けできないというのですね。

この個々人が思考することなく従う道徳に対し「倫理」というものがあります。これを育てていくには強い意志が必要となります。哲学というのはいってみればそういうところで生まれるのではないかという話です。

英語版
Ethics is concerned with the question of how the individual is to live. However, when fixed in relation to the community, the individual does not exist in a real sense. It is by severance from the community that one first becomes an individual. Then, for the first time, the self is discovered and the question of ethics arises. In this sense, Ionia was the first in the Greek region to raise the question of the self and ethics. In Athens at the time, no such questions presented themselves. This is because the Athenian people were not yet individuals, independent from community affiliations present since the stage of clan society. Ionia, on the other hand, was composed of colonists from various communities; hence the individual existed from the start. The Ionian polis was established through the social contract among such individuals. Here, at the same time one was free from traditional community bonds, one was loyal to a polis one had chosen. This fidelity was based purely on individual will, not on the accident of birth. This is why, should inequality arise within the polis, one could simply leave. Isonomia as a principle can only be realized under these conditions.
日本語版
倫理とは個人がどう生きるかにかかわる。だが共同体に内属する状態では、真の意味での個人は存在しない。そこから出たときはじめて、ひととなる。その時初めて「自己」が見出され、また「倫理」が問われるのである。その意味で、倫理や自己の問題が問われたのには、まずイオニアにおいてである。同時代のアテネではそのような問題は存在しなかった。なぜなら、そこでは、個人は士族的段階以来の共同体から自立していなかったからである。一方、さまざまな共同体から出てきた植民者からなるイオニアでは、最初から「個人」が存在した。イオニアのポリスは、そのような個人の「社会契約」によって成立した。ここでは、個人は伝統的な共同体から自立していたが、自ら選んだポリスに関しては忠実であった。それはあくまで個人の意思によるので、そこに生まれたという運命によってではない。だからまた、そのポリスが不平等であるならば、人はそこを出たのである。イソノミアは、このようなポリスにおいてのみ可能な原理である。

英文のポイント

強調構文をトコトン掘り下げて再考しよう

(A) It is  名詞要素 that ~

♦強調構文の構造

It Is で始まりthat節を取るというパターンはいくつかの種類があります。

a)「形式主語」として後ろのthat節の内容を受ける場合

b) It is not that…. 「…ということではない」という場合

c) そしてここで学ぶ強調構文の場合

Itが「形式主語」の場合は後ろのthat節は名詞節でthatは接続詞です。これに対し「強調構文」の場合はItは「形式主語」とは言えません。that節は関係節になります(that以外にwhoやwhichが用いられることもよくあります)。

♦強調構文における主題

この構文では、主題はIt isの直後の要素であり関係節は題術になります。

  It is <主題Theme>   that <題術>

これまでの様々な主題は常に節の先頭にあったのに対し、「強調構文」の主題は、It is がつくる一つの小さな節の末尾にあるということが最も大きなポイントです。

おさらいとして

主題と題術の関係を振り返っておきましょう。そこでの記事には私のコラム、余談が前置きとしてありますのでご了承をお願いします。

♦「強調構文」の主題に加わる特別な意味

この構文の訳し方は「(題術)なのは(主題)である」となるのですが、主題に対して「他ならぬ…である」・「…であってそれ以外のものではない」・「…だけである」といった意味が加わります。

♦主題選択から見た「強調構文」の役割

まず、ふたつの「強調構文」に注目してください。

a) It is a Russian who made the first person practical television system.「初めてテレビを実用化したのは(他ならぬ)ロシア人だった」

b) It is this role that we have highlighted and that we believed to be most important. 「われわれが強調してきたのは、そして極めて重要だと我々が考えているのは、(他ならぬ)こうした役割なのである」

a) は関係代名詞に主題を代入した場合、関係節はS V O の形式になり極めてノーマルな形です。それに対しb)では関係代名詞は目的語OとなるのでO S V という極めてアブノーマルの形式となっているのですが「強調構文」という構造のためそれは第一にコントラストや前景化の必要がないということ、第二に「他ならぬ~である」という確認的な姿勢を示したということが動機になっているのです。

 

おさらいとして 語順に関する情報構造を表にした記事がありますので確認をお願いします

♦情報構造からみた「強調構文」の役割

以上が、主題選択という面から見た「強調構文」の使用動機です。今度は情報構造の観点から、「強調構文」の使用動機を探りましょう!この構文の情報構造は3つに大別できます。

 

ⅰ) It is <新情報Newthat <旧情報Given
ⅱ) It is <旧情報Giventhat<新情報New
ⅲ) It is <新情報Newthat<新情報New

このうち、ⅲ)のパターンは新聞記事を除いてめったに見られるものではありません。そこでⅰ)とⅱ)のパターンを取り上げたいと思います。

♦ⅰ)の例文を見ましょう。

British and America scientists helped to develop the basic ideas that made television possible, but it was a Russian who made the first practical television system.  「イギリス人とアメリカ人の科学者たちは、テレビを実現する基本的な考え方を発展させるのに貢献したが、初めてテレビを実用化したのは、(他ならぬ)あるロシア人だった」

このセンテンスは、butまでの部分と関係詞節は「テレビの実用化」に関する言及で一致しております。そして、It was a Russian「他ならぬ、とあるロシア人だった」が新情報Newです。

この例文から、「強調構文」の使用動機がつかめると思います。「強調構文」を用いずに、ノーマルな形からa Russian から書き始めると主語Sが新情報New になってしまい書き言葉の基本であるGiven⇒New とは異なり不自然なものとなるのです。「強調構文」を用いるのは、新情報を節の先頭ではなく、It is の補語Cの位置、つまり節の末尾に配置することで(End Focus) 自然な情報構造とするためです。

このパターンの時は、次に来る内容は、新情報Newの方をテーマにした話になるなと期待しながら読み進めてほしいものです。

♦ⅱ)の例文を見てみましょう

①Nearly every traveler who enters a new culture experiences some unpleasantness that has come to be known as culture shock. ②Jet travel makes possible the abrupt loss of a familiar environment. ③Experts believe that it is this sudden change that causes culture shock. 「①新しい文化へと入っていくほとんどすべての旅行者が、「カルチャーショック」として知られるようになっているある種の不快さを体験する。②ジェット機での旅によって、なじみ深い環境が突如として失われることになる。③専門家によれば、カルチャーショックを引き起こすのは、(他ならぬ)この突如の変化なのである。

この例文が②で終わるとまとまりがないまま話が中断された印象を受けますね?そこで③の出番です。③のthis sudden change「この突然の変化」は直前のthe abrupt loss of a familiar environment 「馴染み深い環境の突然の喪失」の再現です。つまり、this suddden change の部分は旧情報Aです。そしてthat以下には ①のculture shockが再現されます。つまりNewBです。

新情報、旧情報はたんに新しい,古いを指しているわけではありません。

新情報と旧情報、それぞれ3つに分類できます

③の「強調構文」は①のカルチャーショックと②の「突然の環境の変化」というこれまで無関係に放置されていたふたつの内容を一つにまとめ上げる役割を果たしているのです。この時「カルチャーショック」が「突然の環境の変化」の結果であるという点が①にはなかった新たな意義・角度です。

このように、たとえ旧情報であっても新しいアングルから光を当てる場合は新情報New Bとして扱われるのです。

この短い文章から見てもわかるようにⅱ)のIt is <旧情報Given Athat<新情報New B>という形式はこの節自体がこれまでの内容の要約であるといえるのです。

よって、さらにこのセンテンスのうしろに英文が続くとすればほとんどの場合新しい話題へと移行します。

もう一つ付け加えておきます。この新情報New B(すでに述べられたものだが、再び、価値のあるものとして取り上げられた情報) は一応ひとつ前のパラグラフあるいはもっと前まで遡らないと見えてこないことがあります。それがどこからどこまでをまとめているのか把握することが肝といえましょう。

(B) It is 副詞要素 that~

副詞要素M₂が主題となる「強調構文」も副詞要素が主題となる点で異なるだけで「他ならぬ」という意味が加わるところは同じです。

この場合副詞要素として用いることができるのは、コントラストが生じるのを防ぎ「他ならぬ」という意味を加えたいからそれにフィットする副詞要素でないといけません。「時・場所・理由」等の副詞要素はOKです。条件「もし~だとすれば」や譲歩「~にもかかわらず」は「他ならぬ」とフィットしないので用いられることはないのです。

おさらいとして副詞要素が文頭にきて主題となる形式も確認してください。

主語S以外のものが主題となる場合

強調構文を話すとまだまだ尽きることはありませんが、大きなポイントは指摘できたと思いますのでここらで終わりにします。強調構文を制すものは、英文読解・英文要約を制すといっても過言ではありません。

ティーブレイク

僕は自分が哲学者などというのはおこがましくてとても言えません。いったところで誰も相手にしないでしょう。しかし本当のところ、小学生、いや幼稚園児のころから集団に溶け込むことができませんでした。中学生くらいからクラスにおいても部活においても集団との齟齬は感じていましたし、勉強などそこで足を引っ張られていた気がします。僕が、柄谷行人さんの本をよく読むのは、何となく自分の気持ちを代弁していてくれているからに違いありません。

通常なにげなく使われている「個人」も彼にとっては、個人とは言えなくなります。共同体の一員である以上は。先にもいいましたが、「倫理21」の中の論文で、感銘を受けた話があります。感情移入することを避けたところもあり僕は小説が好きではなく、その作者から思想をくみ取ることはできません。夏目漱石にしろ、太宰治にしろ批評家・評論家を通して読むところがあるのでそこのところはご理解をお願いします。

円地文子の「食卓のない家族」、これは道徳と倫理の違いを考える上で大変役立つ小説です。連合赤軍事件をモデルとしたものですが、赤軍派となって政治犯となってしまった一人の青年は国家権力というはっきりした相手に華々しい戦いを挑んだつもりでしたが、結局周囲に甚大な迷惑を掛けました。世間は彼を許しません。牢に入れられた後も彼の父親に「謝罪しろ」っと迫ったのですがこの父親はかたくなに拒絶し、普通に会社にも出勤しつづけたのです。

彼の強情はあくまでも息子の「個」を死守するためのものでした。巨大な相手に戦いを挑んだ息子の是非は問いません。ただ彼の「倫理」だけをまもったのです。実体のない真綿で首を絞めてくる「世間」というものと戦った父親に比べると息子の打倒すべき「国家権力」など大したものではありません。僕たちはむしろここに父親の倫理を見ないといけません。この息子の妹は「兄さんの闘争より父さんの方が怖くて気持ち悪い」といったのは印象的でした。ここには、テレビドラマで出てくる馴れ合いの家族愛はありません。でも「個」を認め合う構成員なのです。「食卓のない家」、一度読んでみてはどうでしょう。

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