絶望は真剣な戯れに向かう

✱ この記事はnoteに投稿したものを加筆・修正したものです。

シュレーゲルというロマン派思想家が「遊びの頂点は真面目」といったとき、精神分析の巨匠フロイトはそうじゃないといい切りました。

戯れの反対は真面目ではない、現実だ」と。

これが何を意味するのかを考えますと、私は三島由紀夫の自刃を考えてしまいます。1970年11月で、まだ物心もつかぬ時でしたから彼自身の書や彼への批評などを参考にしての話ですが。

保守派、愛国主義者の中には今でも三島が国を憂いて、命がけの決起をしたと担いでいる人たちがいます。でも彼は自殺の数年前からすでに日本の未来を諦めていたのではないか?投げ出していたのではないかと批評することもできます。もっというと問題はそこでなく、私的に抱えた難題からそっちに目を背けたのではないか?という人さえいます。私自身も大義に命を懸けられるのかは疑問です。そこで取った態度が

戦後、日本には守るべきものが何もない、その何もないことを守ろうとした

という仮説です。三島はこのイロニーを地で行ったのではないかというのです。その英文を取り上げます。

① According to Mishima’s way of thinking, the emperor should have died in Showa 20, even as his supporters predicted at that time. ② He would have thereby become a god.③ But with his renunciation of divinity, the emperor lived on as a symbol of post war national unity. ④ The reincarnated emperor after the war was nothing more than a counterfeit, but it was no different from Mishima’s self contempt at having survived what should have been the “Final War.” ⑤ For Mishima, in order for an object to attain a genuine, absolute beauty (divinity), it must be destroyed, like the Temple of the Garden Pavilion. ⑥ Mishima’s suicide signifies, as well, the killing of the postwar emperor.

(私の訳)

 ①三島の考え方では、天皇は昭和20年に死ぬべきだった。それは支持者たちでさえその当時予想していたものだったのだ。②そうすることで彼は神になれたろうに。③しかし聖なるものが生まれ変わって、天皇は戦後国民の象徴として生き延びた。④戦後生まれ変わった天皇はにせものにすぎない。しかしそれは、最終戦争となるべきものから生き続けていることへの自己蔑視とちがいはない。⑤三島にとって一つの事物が本物、絶対なる美(神聖)へ到達するためにはそれは滅ぼされねばならなかった、『金閣寺』のように。⑥三島の自殺はまた、戦後天皇の殺害をも意味する。

英語のポイント

a)  ①のAccording to ~、S V…… の形式も報告構造 S V that……..の一変種です。

この場合、~に入るのが報告者、according to は筆者が報告者の主張をいったん受け入れますよという態度をとるため中立な立場、主節となるS V… が報告内容です。

b)   ②はif節をもたない仮定法過去完了です。

しかし①で過去完了の時制に助動詞should がついていますね。このshouldは過去の出来事に対する<遺憾>を表現します。そうすると①の主節と②を合体させると

If the emperor had died in Showa 20, he would have thereby become a god.

と仮定法過去完了のノーマル系になります。

そして仮定法とは、ありえなかった可能世界を描写することで、現実世界を浮かび上がらせるという二つの世界を対比させるという効果を持つのです。次の③をそう意識すると面白いですよ。

私見

すごい洞察力ですね。三島由紀夫の行動の背景には賛否両論あれども私はこの筆者に賛成です。

彼が本当に命がけで日本精神なるものを復活させようとしたのか。むしろこの表題にも書きましたが「絶望は真剣な戯れに向かう」ということではなかったのかと疑ってしまいます。

そもそも初めから日本精神などというものの存在自体を疑っていたのではないでしょうか。背後にはニヒリズムがあったと思えます。ある評論家が「ニヒリズムは甘えた意味の要求だ」といっていましたね。それが滅亡デカダンスに通じると。

私は、三島に敬意を表す作家も知っていますが、とにかく彼を持ち上げ坂口安吾の『堕落論』をやっけるのです。全くこの題しか読んでないのではと、大げさに言ってしまいたくなるものです。

坂口安吾は三島の『金閣寺』のように小説ではなく、エッセイで「法隆寺など焼き払ってけっこう、必要ならそこに駐車場をつくるがいい」といったのですがこれは近代主義者でもなければニヒリズムでもない。あらゆる価値が無に帰したとき新たな価値を構築しようとする決意だと私は読めます。