客観性という重荷から数学を解放する

私は、けっこう長い間思想書というものを拘泥してきたのですが、80年代のニューアカ・ブームの時代によく「自己言及性」という言葉にふれました。今でさえ、正確に説明できるか分からないし、間違っているといわれるかもしれません。ですが、それこそが自己言及性の本質なのです。

それは、人間が判断・決定できない独自の構造をもったものといえます。均衡理論のような静的なものとは異なります。たとえば数字はある対象を測るものではなく「数字は数字についての数字」といえばどうでしょう。

「構築への意志」というところでも話しましたが、x²=2という方程式はx=2/X ですから「xを知るにはxを知っていなければならない」ということなのです。人間はそれをx=√2で解消し、その上で構造・均衡理論を立てたのです。

「自己言及性」に関する興味深い論文があります。

① Structuralists attempted to construct an equilibrate system precisely by suppressing self-referentiality. ② Yet those who applied mathematical structuralism to their own fields of study encountered the same aporia that mathematical structuralism had encountered -one thinks for example of the gaps that structure the Lacanian Symbolic.

(私の訳)

 ① 構造主義者が均衡理論を構築しようとしたのはただ自己言及性を抑圧することによってのみなのだ。② しかし数学の構造を自分たち独自の研究分野に応用しようとした人々は、数学の構造主義者がかつて出くわしたのと同じ難問に出くわしたのだった。たとえば、ラカン派象徴主義を構成する空白のことを思うものもいるだろう。

英文のポイント

②の構造は、私たちバブル世代の浪人生は結構楽しみながら格闘していたのではないでしょうか。主語Sはthose(人々)、そしてそれに呼応する動詞VはSを修飾する関係代名詞節が入っているためずっと離れたところに、encounteredとしてあります。そしてVの目的語Oであるthe same aporiaにもまた関係代名詞節がかかっています。

私はこういう入り組んだ構文分析に青春の一ページを使ったのでした。

①は S V ….. precisely by ~
という形式ですが、このpreciselyは「ただ~のみ」という意味で用いられますが、これはby以下の副詞句を強調する効果を持ちます。ですから訳の時も訳し上げてほしくないですね。これは高校の英語授業を疑ってほしいです。

構造上のSやVやOというのは英文上は前提、そして修飾語に新たな展開または筆者の主張・力点が置かれることがよくあるのです

私見

私はこの「自己言及性」というのは私たちが住む世界そのものだと少し悟れるようになりました。私たちが起こす行動が、誰にいつどのような影響を与えるのかは分かりません。スピノザというオランダの哲学者は人間を「世界内存在」といって自由意思を認めません。自由と思い込んでいるだけで何かに強いられているにすぎない。さらに明確な目的をもって起こした行為も全く意図しない結果を導くこともあります。

また「言葉は言葉についての言葉だ」とある言語学者がいいました。それは言葉に決定的な意味はないということです。あるとすればそれは閉ざされた共同体内部だけです。開かれた社会には話し手の意図とは異なって聞き手が理解しそれに応じ行動を起こすわけです。そうした連鎖が私たちの生きる世界なのです。

この自己言及性の世界、基礎をもたない世界は、どんなにIT技術が進歩しようと掌握しきれないものではないでしょうか。