教育の過渡期 ~「モノローグ」から「対話」へ

7歳になる年に小学校に入学し、順風満帆に大学を卒業した場合の16年間で果たして本当の教える―学ぶの関係を持ちえるのでしょうか。わたしはそこに生徒も教師も考えるということが可能になると思うのです。

たいていの先生は、あらかじめ用意したノート・メモを黒板に書き写す。そして今度は生徒がそれを自分のノートに書き写す。臨場感はなし。たまに面白いギャグを挟んで盛り上げることで人気者の先生になることはあっても授業そのもので勝負する先生は皆無といってもいいです。

答えというのは始めから決まっていて、生徒の成績・偏差値はその方向への進捗の度合いにすぎないわけです。たまに授業中に斬新な質問があっても、上手くはぐらかして相対的な場には立ちません。そうすると教室での先生の立場は盤石なのです。

20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインは、こういうのは教えるとは言わない、モノローグ(ひとりごと)だと断言した人です。彼も小学校の教師を3年間(1922~1925)経験していますから説得力もあります。彼の教育哲学から、肯定的な意味で商売の姿勢を見出したポストモダンの批評家もいます。

原文
①The teaching position is not authoritarian, but is the weaker of the two because it is subordinated to someone else’s acquisition of knowledge. ②This inferiority might be likened to the selling position in the buyer-seller relation. 

 

訳出例
① 教えるという立場は権威的ではない。それが両者の中で弱者であるのは、知を得ようとする他の者に委ねられるからだ。②この劣性は売買関係における売る立場につながるのかもしれない。

英文のポイント

✱ not A but B には筆者の主張がもろのでる。

①では高校英語で頻繁に出てくる熟語not A but B が登場します。これは暗記するまでもなく重要です。否定と肯定についての筆者の主観的意見を明確に打ち出しているのです。

✱ コンマ,には構造上重要な意味がある。

①のnot A but B のbut は文と文をつなぐ接続詞であります。そして後ろの文がbecause節に修飾されているのですがこの間にコンマ,がないのに注目してほしいです。それがどういうことかといいますと

主節の内容が末尾の副詞節の内容の影響を受ける場合、または依存している場合コンマ,は打たないのです。条件や理由をあらわすif 節、because節が末尾に来る場合そうなります。中には気まぐれでつけたり省いたりする作家もいますが。

逆にうしろの副詞節が主節に影響を及ぼさない場合は切断としてコンマ,をつけるのです。though節など譲歩の用途に多いです。例としましては

Pat is going to the party at Sue’s on Saturday night, even though she knows she ‘ll be bored.

を見ていただければはっきりします。

マイ意見

私は今がこれまでの公教育が変わる過渡期に来ていると思います。ひと昔ふた昔の世代ですと学校の教室はリアルな場でした。そして黒板の文字を書き写すだけで学んだ気になれたのです。ところが今はどうでしょう?スマホ・タブレットでより有益な学びを無料で手に入れることだってできますし、有料であっても価値あるカリスマ講師とリアルで議論することも可能です。自分で先生が選べるのです。何よりも公教育において最優先されている協調という圧力に屈せずに済みます。

教えるというのが売るという立場に通じるというのは、共通の前提をもたないものに価値を提供するということに等しいですね。そうすると公教育に安住することは許されなくなっていくはずです。真理は決まっている!その方向を目指せばいいという考えの先生が淘汰されるのは時間の問題でしょう。

ところが余談ですが、中学・高校でまだおかしな時代錯誤ともいえる風習がありますね。ザ・ブカツ。<教える―学ぶ>の関係がないところでは、気合いと根性という思考停止型の教育が跋扈するのでしょう。練習においても先輩・コーチに意見することは許されません。目を合わしただけで鉄拳が飛ぶ学校もあるらしいです。毎年も真夏に40度近い気温で高校野球の地区予選・甲子園大会が大人のための見世物として行われています。

 

勉強を18歳で終わらしてはいけないとつくづく思う今日この頃です。